クッキーの設定について

メッツラーは、次に掲げる種類のクッキーを、お客様が当サイトを訪れた際のご利用を最適化するために使用いたします。

これらのクッキーは、当サイトの運営に技術的に必要であるか、法令等(当グループが拠点とする欧州関連含む)において必要とされる情報を保存します。*したがって、選択を解除することはできません。

また、クッキーは設定を保存して、オンラインサービスを継続的に改善したり、サイトへのアクセスをより便利にしたりするのに役立ちます。受け入れたCookieを個別に選択し、いつでも設定を変更できます。詳細についてはこちらを参照してください。

 

これらのクッキーは、当サイトの運営に技術的に必要で、かつ法令等(当グループが拠点とする欧州に関するものを含む)において必要とされる情報を保存します。*したがって、選択を解除することはできません。

これらのクッキーは、当サイトを改善する為、統計をとるためと分析のために匿名データを収集します。

これらのクッキーにより、当サイトの使用が容易になります。たとえば、設定を30日間保存できます。

History of Metzler Bank

Independent since 1674

嚆矢は織物取引から

バンクハウス・メッツラーの源流は、ドイツ東部のザクセン地方フォークトラント地域出身の牧師の息子、ベンニャミン=メッツラーが織物商を創業した1674年に遡る。1663年、13歳のベンニャミンは南部都市ニュルンベルクへ渡り、当地の商家で見習いとして働きながら商いのイロハを学んだ。1671年にはフランクフルトへ移り、有力織物商の下で3年間、経理を担った。

Unterschrift Benjamin Metzler

織物商から銀行業へ 

欧州における他の大商業都市と同様、当時のフランクフルトも既に数百年間にわたり商業の町として栄えていた。その繁栄を支えていたのは、近隣や遠方の地方から頻繁に出入りする商人たちが町にもたらす新鮮な活力だった。特に当時のフランクフルトには、欧州の重要な通商路を結ぶ中継地としての地の利があった。このため、商いの内容は徐々に交易仲介業や運送業に比重が傾き、17世紀末には早くも交易と金融を抱き合わせる商売が成り立っていた。このような運送業や交易仲介業に短期の貸付業務を組み合わせる商売を母体に、後にフランクフルトに多くの家族経営銀行(プライベートバンク)が誕生した。メッツラー家の事業も同じ道を辿った。1728年には既に金融・手形取引が行われていたとの記録がある。そして1738年、ヨハン・イェレミアス=メッツラーが自身の職業を、物品と手形の双方を取引するという意味で「marchand banquier(仏語マルシャン・バンキエ=商品売買を行う銀行家)」と称した記録が残されている。

Johann Jeremias Metzler

18世紀:国債事業

家業が本格的な金融業におおかた変容を遂げ終えたのは1760年前後。クリスティーナ・バルバラ=メッツラーという女性経営者の采配の下だった。

Christina Barbara Metzler

1771年にはフリードリヒ=メッツラーが経営に加わる。彼はこの後、同家初代のプライベートバンカーとなり、一族の中で最も傑出した人物の一人に数え上げられる。同じフランクフルトの名門プライベートバンク、ベートマンが、在ウィーンの神聖ローマ帝国皇帝のために初めて百万グルデンを超える国債発行を手掛けた1779年、メッツラーも利潤が高く長足の勢いで伸びる国債事業に乗り出した。メッツラーではこの後もなお商業を続けるが、家業の比重は次第に金融業に移っていった。ベートマンがハプスブルク王朝の資金調達を手掛けたのに対し、メッツラーはプロイセン王家の金融を担った。ナポレオン時代に入ると、メッツラーは国債事業から手を引き、証券業務や証券管理業務に傾注するようになった。

Friedrich Metzler

19世紀:カスタムメイドの金融サービスへの集中

19世紀も終盤に差し掛かった頃、工業化に伴う事業規模拡大への産業界の要請に応えるため、株式会社の形態を取る銀行が続々と誕生した。その中で、こうした新興勢力とまともに競争するためにはバランスシートの規模を急速に拡大させる必要があることを、メッツラー経営陣は早々に理解していた。しかしそれは同時に、いずれは当行の独立性を危険にさらすことも意味していた。さらには規模が幅を利かすこのような競争では、プライベートバンクの本来の強み発揮できないことも明白だった。この危機を乗り切るため行き着いた答は、百年以上経った現在の経営戦略になお決定的な影響を及ぼす戦略志向だった。それはつまり、バランスシートへの計上を伴う取引を回避する一方で、顧客ごとに個別の金融サービスを提供するという、いわば数世紀にわたって専門性を発揮し続けてきたプライベートバンク典型のビジネスモデルだった。

Headquarters Metzler Bank in Frankfurt/Main, Germany in 1849

20世紀:投資銀行への変容

その結果として、20世紀初頭には預金および与信業務を制限する一方で、証券取引業務を集注的に強化した。しかしその後、帝国時代が終焉し、ヴァイマール共和国時代に移るに従って金融都市フランクフルトの地位は衰え、代わりにベルリンの重要性が高まっていく。加えて当時厳しさを増しつつあった経済環境も、在フランクフルトのプライベートバンクの事業を圧迫した。1929年10月以降の世界恐慌、1931年7月のドイツ金融危機が、その上さらに手痛い損失をもたらした。しかし、バンクハウス・メッツラーはこの厳しい時代を自力で乗り切ることに成功した。ヒトラーの第3帝国および第2次世界大戦期には、広範な産業規制や外国からの孤立状態が足かせとなり、銀行業は総じて活発な動きが取れない状況にあった。

1944年3月、19世紀初頭に購入したフランクフルト市グローセ・ガルスシュトラーセの本店が空襲で破壊され、大半の取引記録も焼失した。戦後しばらくは、金融業の復興の足取りは遅々として進まなかった。この間、経営陣は金融サービス分野への集中という戦前から引き継いだ戦略を徹底的に貫いた。

Albert von Metzler

そして1970年代終わりに到来した国際証券市場の急速な発展という好機を万全の態勢で迎えることができた。とりわけ証券取引がフランクフルト市場に集中したことが有利に働いた。同時にメッツラーは、アングロサクソン型ビジネスモデルに準拠した投資銀行への変容を積極的に進めた。その結果、メッツラーの事業において伝統の商業銀行業務の重要性は一層薄れることになり、証券や為替の取引および顧問、資産管理、貿易決済、企業金融などへ経営資源の集中が進んだ。

長期的な独立性とビジネスの継続性を確保し、資本基盤の充実を図るため、メッツラーは1986年、パートナーシップ制の人的会社から株式合資会社の形を取る資本会社に企業形態を変更した。こうして外部資本に頼ることなく自己資金を大幅に積み増すと同時に、非公開準備金を形成するという原則の維持が可能となった。出資者は従来どおりフォン・メッツラー家の一員に制限された。この法形式であれば、経営責任者が引き続き無限責任を負うため、プライベートバンクの性格が保持できる。また、アングロサクソン型銀行の構成に準拠した持ち株会社方式を採用し、親会社は「B. Metzler seel. Sohn & Co. Holding AG」の商号を用いることになった。これ以降、諸々の事業分野は独立した姉妹会社に振り分けられ、それぞれが顧客の要請に応じたアドバイスを行うという理念を核に事業を営んでいる。

当行の経営哲学は何世紀にもわたり独立性の維持に照準を定めている。それを実現する手立てはビジネスの長期的成功と持続可能な収益性だ。バンクハウス・メッツラーは有力な競合他社より優れた、もしくは最低でも同等のサービスを提供できる分野へ経営資源を集中させることにより、これまで成功を収めてきた。独立性の保持に向けた責任ある行動が顧客の信頼を呼び、長期的な取引関係を促進し、ひいては成功を招くと考える。メッツラー流企業家精神の大義はまさに「変化あっての永続」といえよう。